ぜんこうじ かさまつぜんこうじ
岐阜県羽島郡笠松町下新町42
元文元年(1736年)、現在の境内にかつてあった処刑場で斬罪された者の霊に対し誰一人これを弔う者がいなかったことを憂いた恵澄居士・恵教尼夫婦によって小堂として創建された。夫婦は敷地560余坪を寄進し..
元文元年(1736年)、現在の境内にかつてあった処刑場で斬罪された者の霊に対し誰一人これを弔う者がいなかったことを憂いた恵澄居士・恵教尼夫婦によって小堂として創建された。夫婦は敷地560余坪を寄進して一宇を建立し、無縁の亡霊を弔った。 明和6年(1769年)、夫婦の実子・冷山智暁童子が没したため、その法名から取って専養寺の末寺として智暁庵という名がつけられ、公にも許可を受けた。庵主第1世は開基・恵澄居士の妻・智達恵教浄行尼で、専養寺で得道したのちに入庵して斬罪者および牢死者の菩提を弔うため念仏三昧ですごし、寛政6年(1794年)に没した。 2世・円明恵教浄行尼は天保9年(1838年)に、3世・智音明観浄行尼は安政6年(1859年)にそれぞれ没した。 4世の智空恵教法尼は明治3年(1870年)、極悪人の処刑場となっていた藤掛村嫁ケ淵にあった南無妙法蓮華経・南無阿弥陀仏と記された2基の石碑を境内に移した。恵教は9年後に没した。 明治13年(1880年)、5世・称円が入庵して荒れた寺を再興した。2年後からは町墓地の管理も行うようになった。明治17年(1884年)、善光寺如来を勧請して奉安すると、2年後には官有地となっていた斬首場の払い下げを受け、境内を135坪拡張した。 明治24年(1891年)、濃尾地震で建物が全て倒壊したが、3年後に仮本堂として間口四間奥行き五間の平屋造建築が建てられた。その10年後には濃尾地震の死者300余人の菩提供養追善のため、金1400余円を投じて釈迦如来の銅像が建立された。 大正元年には工費1700余円によって庫裡が再建された。また昭和10年には工費3700余円で間口七間奥行き八間二重屋根の本堂が起工され、昭和14年に竣功落慶した。このとき同時に善光寺と改称された。
下新町(しもしんまち)にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。
恵能山(えのうざん)
浄土宗
浄土宗西山禅林寺派
1736年(元文元年)
善光寺如来
恵澄
智達恵教浄行
1880年(明治13年)
称円
恵能山善光寺
笠松善光寺
無料
有り(境内)
無し