しまねひかわじんじゃ
埼玉県さいたま市西区島根456
嶋根は鴨川と荒川に挟まれた沖積低地で、水田の多い農業地帯である。北東部の自然堤防上に古くからの集落や社寺がある。検討を要する文書とされているが、応永二十年(一四一三)五月二十日の足利義持寄進状(岩井..
嶋根は鴨川と荒川に挟まれた沖積低地で、水田の多い農業地帯である。北東部の自然堤防上に古くからの集落や社寺がある。検討を要する文書とされているが、応永二十年(一四一三)五月二十日の足利義持寄進状(岩井文書)に「足立郡嶋根村」と見え、当村のうち六反の地が氷川宮(現大宮市)に寄進されており、中世における当地と武蔵一宮氷川神社との結び付きをうかがうことができる。 社伝によれば、人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)に宮廷に使えていた足立太郎秀盛なる人が、后を盗み出して関東に下向し、足立の地までやってきた。京では軍勢を差し向けて追って来たが、これを秀盛はことごとく討ち滅ぼした。その後、秀盛は自らの領地に鎮守として氷川神社を勧請した。更に、承和八年(八四一)に月ノ宮を、貞観四年(八六二)に諏訪明神を勧請したという。 また、『風土記稿』島根村の項には次のような由緒が記されている。 氷川社 村内及び側海斗・三条町・在家・塚本等の鎮守なり、当社は弘仁二年の鎮座にして、土俗姉宮と唱ふ、是大宮町氷川明神の姉宮なるゆへなちといえど、其故を詳にせず、古は大社にして社領十五石の御朱印を附せらる。本社に女体男体の二座を安ず、例祭正月・六月十五日、九月・十二月は七日にて、一年四度の祭事あり、又二月廿八日は五穀豊熟の祈として神楽を奏せり、末社牛頭天王社 稲荷社 八幡社 月ノ宮 疱瘡神社 荒脛社 神主石井大隅 京都吉田家の配下なり、家系を蔵す 先祖左衛門次郎国恒は応仁二年(一四六八)十一月五日卒す、其子左衛門五郎国盛より十世にして、今の大隅に至る。其間連綿として其名及び卒年を記せり、旧き神職なるべけれど、外に證となすべきの記録はなし、諏訪社 石井大隅が持なり(以下略) 更に、正保三年(一六四六)に神主石井九郎左衛門が著した「昔より語り伝候事書置覚」によれば、当社は植田谷領の総社で、以前は社領一二〇石を有した。中興の先祖は左衛門次郎国恒で、三代目の左衛門五郎の時に当社は兵火に罹り、近所の者が駆け付けて本殿を運び出し、西の方に離れた拝殿に移したものの、社地・大門・社領をことごとく失い、やむなく神主も岩付へ引き越した。その後、伊奈備前守が当郡を視察した際に当社に参拝し、その荒廃ぶりを見て名主へ尋ねた。そこで、かつて隆昌であった状況を申し述べた。備前守は早速に神主を岩付より戻させ、御供面を備え、社殿の造立を支援したという。 明治六年に村社となり、同九年に字後耕地の神明社・字前の天満三峯合社・字中根切の稲荷社・字東松ノ木の稲荷社を合祀し、更に同四十年には字宮前の諏訪社・字宮後の稲荷社・字後の浅間社を合祀した。
素戔嗚尊、建御名方命
旧村社
弘仁2年(811)
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