三峯城は、標高約405mの「城山しろやま」山頂に築城された山城やまじろで、一部が福井市鹿俣かなまた町にまたがる。山頂は金谷かなだに方面・西袋にしぶくろ方面・上戸口かみとのくち方面からのびた3つの尾根が合流した形で、「三峯」の地名はこれに由来するようであり、眼下に谷平野を一望できることから戦略的拠点としては格好の立地と言える。
『太平記』によると、「南北朝争乱期の延元2年(1337)、北朝方の平泉寺へいせんじ僧兵が南朝方に翻り「三峯」に立て篭もった際に、南朝方の総大将である新田義貞は弟の脇屋義助を城の大将として派遣した」とある。以後、南朝方の攻勢の拠点として重要な位置を占めていたようであるが、築城から4年目の暦応3年(1340)に北朝方の三山重行によって攻め落とされている。