当神社は、その祭神大国主命の御子事代主命併八王子神にして、八王子神社と称せられ、慶応4年辰6月八王子神社帳によれば、その社殿たて36間、横16間3尺、平地境内594坪にして、神社御供田として、字東作に下田八畝歩御高壱石4斗とあり、この社殿境内御供田については、度々の検地の際、何れも除地として特別の取扱いがなされている事からみて、神社創建は今から凡そ壱千二百数十年前、霊亀年間、祭祀料として和泉を献じたというから、その当時この神を祀ったのだとも伝えられている。現存の古記録によれば、今の社殿は、後陽成天皇の慶長16年(1611年)豊臣秀吉公の命により、片桐市正且元が、検地惣奉行として検地をなしたる時、御朱印地となし、神社を崇拝なさしめ、神事として毎年、宮の月の行事として、神子湯あびの行事を行い、村中の祭典として参拝せしめたとの事である。その後延宝7年3月8日、徳川幕府の命により、岡部内膳正の検地惣奉行として宮崎清兵衛、佐々木甚佐衛門奉行として岡部次郎兵衛、田代某、浅野弥太夫等検地に当たり、庄屋次右門竝に案内者として、次郎兵衛以下4名がこれにあたり、この折にも前回同様除地として壱反九畝弐拾四歩等が、記録に残されている。この様に除地竝に御供田としての特別の扱いをうけ、来ったのであるが、前記の如く慶応4年6月御地頭様よりの御改めによって以来、神主を相定めこの祭典を福瀬村中においてするとの定書が座講中及び小堂寺住時実盛庄屋との間にとりかわされている。その後さらに、明治8年御一新の際の宮改めにより、戎神社となり、毎年1月10日を祭典日と定め、1年中の幸福と一家繁栄の祈願を行って来たのであるが、創建当時より、福の神としてあまねく崇拝され、年中の福を授からんものと遠近の人々数多押し寄せて瀬をなしたるため、福瀬と名付けたのが現在の町名となったともいわれている。ついで、明治41年1月、西園寺内閣当時の神社合併の際、下の宮八坂神社境内に遷宮せられたのであるが、戎神社の祭典は福瀬部落担当として執り行い、福の餅行列もなし来たのであった。昭和21年、旧横山村東西の氏神、八坂、男乃宇刀の2社合併、八坂神社廃社となるに際し、境内に合祀せられいたる戎神社の祭神は当時の部落長山抱清一郎、副部落長藤原良平等に捧持せられ、現在の地に復帰したのである。