この地には、通称、天満宮と呼ばれるお宮さんがありました。下鴨村の人々は「天神社」や「天神さん」と呼んでいました。明治時代初頭まで、この参道脇には、下鴨神社の学問所の先生たちが住んでいました。この場所には、講釈師の源流となる神道講談の玉田永教(一七五六~一八三六)のお屋敷がありました。永教は、庶民に講談という形で、神道や神話について、全国を説いて回りました。元々は、大阪の露天神近くに住んでいたことから、邸内社として天満宮を祀ったと伝わっています。しかし、明治初年からの明治新政府による様々な神祇制度改革のの影響で、永教の孫である三矢田清三郎(弘文)は大阪に戻り、講釈師玉田派を創設し玉田玉枝斎として上方講釈の礎を築きました。天満宮は、その後、天神宮と合祀され、下鴨神社の旧社家たちは、「天神宮社」称し、「天照大御神」と「天満宮」をお祀りしていました。なかでも、比良木社のお火たきには、学問所の秀穂舎の子供たちが日頃勉強した習字を献書し、今日まで続いています。令和十八年度に斎行される第三十五回式年遷宮事業の一つとして「天神宮社」がご再興されます。