けたじんじゃ
兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
太古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。 新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂..
太古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。 新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から両者三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された(播磨風土記)。 国司文書によれば、気多神社は神武天皇9年(前651)に気立(気多)の丘に創建されたと記されている。 大化の改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一都一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。 現社殿は延宝5年(1677)の再建であり、大正12年に大修繕を行い現在に到っている。現存する鰐口は応永32年(1425)の作で、市文化財に指定されている。明治3年気多神社と社名を改め、明治6年郷社に列せられた。 境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社等が祭られている。
但馬国総社 旧称は「惣社気多大明神」
大己貴命
式内社(小)、但馬国総社、旧郷社
神武天皇9年(651)
一間社流造
豊岡市指定文化財(工芸品) 気多神社の鰐口 1口
無料
有り(なお、国道側には有りません)
なし