1300年前の天平時代、行基によって讃留霊王(さるれおう)菩提のため、鵜足郡下法軍寺(現・丸亀市飯山町下法軍寺)に法勳寺(法勲寺)として創建された。その後弘法大師が滞在し、ヤマトタケルの子・武殻王の陵墓とされる讃王塚の近くに移した。
現在の法勳寺跡では白鳳期から平安時代にかけての瓦が出土するとともに、「吾妻鏡」に名が見えることから、鎌倉時代までは確実に存在していたことがわかっているが、縁起によればのちに廃寺状態となり、本尊・霊宝を近くにある島田寺に移したという。
天正15年(1587年)、生駒親正が讃岐に入ると、讃岐が空海の誕生地であることから密教に帰依し、島田寺の良純上人を慕って法勳寺を再建し、良純に寺務を執らせた。その後関ヶ原の戦いで西軍についた親正は隠居して高野山などへ籠もっていたが、赦されて宇多津へ戻った。
慶長8年(1603年)2月13日、親正が没し、弘憲公の諡号が送られた。嫡男・一正は遺命によって高野山へ遺骸を送り荼毘に付させ、高松西浜(現・高松市錦町)へ葬るとともに、寺を親正の塚のある地である現在地に移し、諡号にもとづく弘憲寺と改称した。また、良純を住職に任じて島田寺領50石を弘憲寺に与え、古画・名器をうつし、島田寺を弘憲寺の末寺とした。
良純上人の没後、宥遍上人が住職を継いだ。宥遍は縁起によると、大力の持ち主として知られ、高野山浄菩薩院の住職であった。嵯峨大覚寺法親王が高野山に遊学したときを師と仰ぎ、その縁から寛永13年に上人の号を授かるとともに、法親王が後水尾天皇の皇子だったことから、天皇から七条袈裟を賜った。
寛永19年、生駒家が出羽国矢島に国替えになると、新藩主として松平家が入封する。松平家は領内で弘憲寺のみに降雨の祈祷を命じ、郡奉行や郷方役人が寺に詰めたと記されている。また、一群一ヶ寺のみ選ばれる五穀成就の祈祷も仰せつけられ、松平政権下においても重要な役割を担った。
弘憲寺への改称をもって創建とし、良純上人を初代とする数え方では、現在の住職が17世 。