出雲大社土佐分祠の拝殿です。3年ぶりの大しめ縄の掛け替えが昨年11月にされました。藁は、四万十町の十川で刈り取られたものです。
境内社の左が「恵比寿神社」漁業に御利益あり、右側が「比江山神社」勝負運に御利益あり。
以前にもお話ししたように、比江山神社の御祭神は長宗我部元親公の家臣で従兄弟にあたる比江山親興公です。彼は元親公が溺愛していた嫡男・信親公が九州の戸次川合戦で島津氏に討ち取られてしまった後、次男の親和公・三男の親忠公の二人を差し置いて同じく溺愛している四男盛親公を後継者に据えようとした事に元親公の甥で女婿だった吉良親実公とともに断固反対し、翻意するように強く諫言しています😥これに激怒した元親公は一門の重鎮たる二人に自刃を命じて粛清し、盛親公を半ば強引に後継者としました😥その後の長宗我部家での凶事は京極夏彦さんの怪談「七人みさき」のモデルとなったそうです。
この神社はその親興公の鎮魂の為に建立されたものだとか。
大黒様とうさぎです。うさぎの頭をなでると良いと境内の案内図にあったので、私もなでてみました。
そう言えば石碑に書かれている大黒さまの童謡って最近は殆ど耳にしなくなりましたね💦
出雲大社土佐分祠の青い大鳥居です。土佐分祠の境内は、南北朝時代の古戦場跡であるとされ、鳥居の前に記念碑が立てられています。
明治天皇の御聖断により、大覚寺統の後醍醐天皇とその子孫の吉野朝廷が正統とされたのを偲ばせる石碑ですね。あの徳川光圀公が編纂した大日本史もやはり南朝が正統の立場を主張しています。
明治時代から昭和の戦中までは持明院統の光厳上皇・光明天皇兄弟を擁立して後醍醐天皇方を吉野に放逐した足利尊氏公は逆賊とされ、彼を称賛する事はタブーとされていたそうです(⌒-⌒; )とは言っても室町時代以降、現代に続く皇統は紛れもなく光厳天皇の血統なんですが(⌒-⌒; )
願開舟とは、1783年頃に土佐の志和九郎左衞門が、疫病で苦しむ村人を救おうと出雲大社へ一心に祈りを捧げ、大神のご加護によって無事疫病平癒したが、出雲への御礼参拝が叶わず、小さな木彫りの船にお賽銭を入れ、出雲大社様 自分の名、当日の日時を刻んで自宅前の吉野川上流から流した船のことです。この船は、18ヶ月後、出雲大社近くの稲佐の浜へと漂着し、「願開舟」として今日に伝えられています。
高知県高知市の出雲大社土佐分祠の拝殿です。
夕方で社務所も閉める準備の中で御朱印を頂きました。