当神社は、穀物の起源神である保食神を奉祀し、産土神としては三田市内で唯一の稲荷神社である。
かつて、村の東北東に位置する八幡山の宇栄ヶ谷に鎮座する八幡神社を産土神としていたが、安土桃山時代の天正年間(1573年〜1591年)に村内の稲荷神社を産土神とした。
明智光秀の丹波攻めに際して、当村にあった光徳寺が青野村青林寺と共に敵対する篠山八上城主 波多野秀治に兵糧を送ったため、これに怒った光秀が光徳寺を焼き払い、その時稲荷神社も類焼した。
そこで八幡、稲荷の両社を合併して産土神としようとしたが、度重なる事故に相い、稲荷神社のみを旧社地の宇赤江から宇下龍王谷に移転して社殿を再建した。
江戸時代に至り、火災によって社殿を焼失したことから、元禄二年(1689年)正月に造営の談合をなし、六十余人の人々が力を合わせて資金を調達、同年十二月に遷宮し、造営が成ったとの棟札が残されている。また、神宮寺として世應山普門寺の名が見られる。
伝説として「毘沙門社、恵比寿社、厳島社、琴平社、大歳社、八幡社あり、当社を合わせて七社なり、これを俗に七福神とし、村名を福島と称した。」と村名の由来が伝えられている。
しかし、時の三田藩主が稲荷神社を除く六社の社殿を破壊し、神木を伐り倒して社地を開墾させ、藩の稲の種取り場とした。
その後も社殿の再建を許さなかったので、村人は見るに忍びず相談のうえ各私有地に小祠を建て霊代を遷して私社として祭祀した。
今も地区内に点在する各社は、区民により毎年祭礼が執り行われている。本殿に残された棟札によると、宝暦二年(1857年)に再建したことがわかる。
さらに明治十三年(1880年)に柿葺春日造の本殿を造営したが、昭和二十九年(1954年)九月の台風十五号により境内の老杉三本が倒れ社殿が全壊、同三十三年秋再建された。
現在の社殿は、平成十九年(2007年)五月に再建、引続き戎神社の完成を待って十一月十七日に正遷宮奉祝祭を挙行したものである。
平成二十年一月吉日
福島稲荷神社氏子中
(福島稲荷神社縁起より)