あんらくじゅいんのみなみのみささぎ
京都府京都市伏見区竹田内畑町
天皇陵では数少ない、木造建築物である多宝塔の陵(鳥羽天皇陵は方形堂)である。 当初は鳥羽天皇皇后、藤原得子の納骨堂としての三重塔であったが、得子が拒否し高野山へ納骨されたため空いたままとなっていた..
天皇陵では数少ない、木造建築物である多宝塔の陵(鳥羽天皇陵は方形堂)である。 当初は鳥羽天皇皇后、藤原得子の納骨堂としての三重塔であったが、得子が拒否し高野山へ納骨されたため空いたままとなっていたが、長寛元年(1163年)になって知足院にあった近衞天皇の遺骨をここに移して新たに納めることとなった。しかし慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で倒壊してしまい、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された。
近衞天皇:鳥羽天皇の第九皇子で第76代天皇。 鳥羽天皇は第一皇子の崇徳天皇へ譲位するも、溺愛する寵妃の藤原得子が懐妊、出産するとその子を生後3ヶ月で立太子させ、3歳になると崇徳天皇に譲位を迫り近衞天皇として即位させた。 幼少期は御帳から出ることなく、御所に引きこもって生活し、『今鏡』によると「器量も性格も本当に可愛らしく、この世のものとは思えないほど賢く大人びていた」と記されている。 院政で鳥羽上皇が政務を司る中、15歳から病気がちとなり、一部には眼病で失明したとする説もある。数少ない面会者の関白・藤原忠通が病気も天皇の譲位の意思も表に出さなかったために、後継を定めないまま17歳で崩御された。 鳥羽法皇の意向で近衞天皇の兄である後白河天皇が即位するも先代の崇徳上皇が実子を即位させようとして対立。 鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇と崇徳上皇の争いへと発展(保元の乱)するのである。
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