べんてんいん
東京都台東区竜泉1-15-9
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨 もあって寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時にその下屋敷であった当水の谷の邸 内の池にも辨財天祠を祀りいわゆ..
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨 もあって寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時にその下屋敷であった当水の谷の邸 内の池にも辨財天祠を祀りいわゆる姉妹辨天とし西方の不忍を夕日東方の水の谷を朝日辨 財天と称した この下屋敷は面積約二万坪であったがその後この地は勝隆の子孫旗本水谷 主水の下屋敷となり次いで北海道の田村富三郎の所有と変り更に新潟県豪農市島徳次郎の 所有に転じ大東亜戦争後の大改革に遭遇し昭和二十二年当主市島徳厚は辨財天を永久祭祀 の条件でこの地を借地人に分譲すると共に境内三百十七坪余をこれら関係者に寄附した 人々市島家の厚情に痛く感激し直ちに奉賛会を設立し昭和二十八年宗教法人法の施行と共 に曹洞宗辨天院と改称し本尊釈迦牟尼佛をも安置した 本堂は大正十二年関東大震災に罹 災したので昭和四年市島家に於て再建したが同二十年大東亜戦争のため烏有に帰した 然 る所同二十三年奉賛会が中心となりこれを復興し同三十六年庫裏も落慶今亦壮麗な玉垣を 完成し輪奐の美を添えた 往昔は琵琶形に造られた中島に常に松柏の大樹が鬱蒼と茂り二 千四百坪の池には蒼々とした底深い水を湛え菱や蓴菜蓮など美しく浮び池畔には有名な料 亭松源や廓の寮を始め瀟洒な別荘が点在し文人墨客の往来も激しかった 然るに関東大震 災直後東京市の要請もありこの池を焼土の処分場に提供尓来二年有半宅地と化し昔日の面 影を没するに至った 思うに町会の興隆は人心の融和に因る団結が基本であるがそのため にはこの辨財天を我らの守護神として日々崇敬し永く子々孫々に至るまで義理を重んずる 下町人情に徹し町会の発展社会の福祉国家の繁栄に寄与するよう祈念するものである
昭和四十年九月吉日 昭和女子大学助教授 塩谷桓撰並書 (境内・由來記碑より)
朝日山
辨天院
曹洞宗
1624年(寛永元年)
水谷勝隆
朝日弁財天