当社は大宮台地浦和支台の北端に祀られており、その北方の低地にはかつて湿地帯が広がっていた。
『風土記稿』によれば、大谷口村は、中尾・広ヶ谷戸・道祖土・柳崎の四か村も含んで一村をなしていたが、元禄年間(一六八八~一七〇四)にそれぞれ分村したという。当社はこの五か村の鎮守として崇敬され、慶安二年(一六四九)には朱印地一〇石を拝領していることから、分村以前から祀られていたことがわかる。本社である武蔵一宮氷川神社は、正保期(一六四四~四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼とした杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って湿地帯を望む高台の地に奉斎されたことは想像に難くない。
『風土記稿』大谷口村の項には「氷川明神社 中尾・広ヶ谷戸・同祖土・柳崎四村の鎮守なり、御朱印十石は村内及び柳崎村にて賜れり末社三神社、天神社、別当安楽寺 天台宗、仙波中院の末、養寿山観明院と号す、本尊は弥陀を安ず」と記されている。安楽寺住職の末裔である野口吉明家所蔵の文書によれば、安楽寺は文久二年(一八六二)に無住となり、本山の学僧であった徳王房順盛を留守居とし、同四年(一八六四)に住職とした。順盛は神仏分離後、還俗して名を野口耀と改め、当社の祀職となり、当社は明治四年に村社に列した。