だいたくぼひかわじんじゃ
埼玉県さいたま市南区太田窪2767
太田窪の地名は、永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』の江戸衆千葉殿領分に「一貫文 同(上足立)大多窪」とあるのが初見である。天正九年(一五八一)には北条氏政が千葉氏領の太田窪百姓中に対し、陣夫..
太田窪の地名は、永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』の江戸衆千葉殿領分に「一貫文 同(上足立)大多窪」とあるのが初見である。天正九年(一五八一)には北条氏政が千葉氏領の太田窪百姓中に対し、陣夫徴発の旧例と現況を報告するよう命じており、また同十五年(一五八七)には太田氏房が「たいたくほ千葉領百姓中」に岩付城の諸曲輪の堀の修復を命じている。当地の千葉家は天正年中(一五七三~九二)に木崎庄を領した千葉国胤の後裔と称し、太田窪の字堀の内に居住している。同家の伝えには鬼門に熊野菩薩、風紋には妙見尊を祀ったといい、今でも屋敷近くに熊野神社と千葉神社がある。 このような中で、太田窪の鎮守である当社も早い時期から祀られていたと考えられ、『風土記稿』大田窪村の項には「氷川社 当村及び原山・円正寺三村の鎮守なり、村内行円寺持」とある。別当の行円寺は中尾村吉祥院門徒の天台宗の寺院で、開山舜栄が寛保元年(一七四一)に寂した伝える。明治初年に廃寺になった模様で、その旧地は当社西方に隣接する。 『明細帳』によれば、明治六年に村社となり、同四十年及び大正二年に太田窪・円正寺・原山新田(原山)から無格社八社を合祀した。 本殿は正面に階段を設けない古い形である見世棚造りで、安土桃山期の建設様式の名残をとどめ貴重である。市の指定文化財である。
素盞嗚尊
旧村社
室町時代末期から安土桃山時代初期
一間社流見世棚造
7月21日
本殿:浦和市(現さいたま市)指定有形文化財
無し
無料