あたごじんじゃ
埼玉県鴻巣市下忍3146
古墳後期に築かれた「愛宕山古墳」の頂に鎮まる当社は、江戸期には隣接する真言宗千手院が別当として祭祀を司つていた。 千手院は慶長十三年(一六〇八)に島崎図書の開創で、同十八年(一六一三)に図書の嫡男..
古墳後期に築かれた「愛宕山古墳」の頂に鎮まる当社は、江戸期には隣接する真言宗千手院が別当として祭祀を司つていた。 千手院は慶長十三年(一六〇八)に島崎図書の開創で、同十八年(一六一三)に図書の嫡男・法印永慶が開山となっている。また、元禄十年(一六九七)六月に島崎新五右衛門が資金を出し法印学応が斡旋して堂宇を改築したことから、この学応を中興としている。 一方、当社に蔵する三枚の棟札の内、最も古い延宝七年(一六七九)のものには「千手院住隆音房恵賀」のほかに「施主島崎新五右衛門」をはじめとした七〇名の連名が見える。 この島崎家は、当社の東二〇〇Mほどの所に居を構える旧家で、鉢形城の落人として兄弟でこの地に土着して開墾を行ったと伝えており、後に名主を務めている。当社の創建にも千手院と同様に島崎家がかかわっていたと推測され、それは千手院の開創からさほど下らない時期であろう。そのためか、昭和十六年まで例大祭には早朝に区長の家で炊いた赤飯一盤台と清酒二升を島崎家に持参するのを例としていた。 当社は神仏分離により明治三年に別当千手院から離れ、本殿に納められていた本地仏の勝軍地蔵像は廃仏毀釈を避けて千手院に移したと伝えられている。大正十年には字角戸に鎮座し、角戸三郎という豪族の屋敷鎮守であったとの由来をもつ伊奈利神社が当社に合祀された。
軻遇突智神
旧村社
7月23日・24日