当社の鎮座する上南畑は、新河岸川と荒川に挟まれた低湿地で、もとは難波田と書いたが、しばしば大洪水に見舞われるのは、難波田の字が災いしているとして安永元年幕府に訴え改めている。なお、難波田の地名は、保元・平治のころ武蔵七党のうちの村山党を先祖とする難波田氏が当地に居住したことに由来する。
当社の由緒は『明細帳』に「古来ヨリ金幣アリテ文明八丙申年三月十五日ト記載アリシカ弘化三午年大水ノ砌村民等数戸水災ヲ当社神殿ニ避ケ頗ル雑沓シ其頃紛失シ方今ニ伝ラス」と記すところから、室町時代中ごろには既に祀られていたことが知られる。
江戸後期の上南畑村に祀る各神社について『風土記稿』は「明石明神社 村の鎮守なり、村内金蔵院持、稲荷社。 水越明神社 是も村の鎮守にして、古へは金蔵院の持なりしが、今は下南畑村西蔵院の持なり、稲荷社。蛇木明神社 牛頭天王社 以上二社は農民の持、稲荷社三宇、一は金蔵院の持、二社は農民の持なり」と載せ、このうち水越明神社が当社である。
明治五年村社となり、同四一年に明石氷川神社、同境内社雷電神社・稲荷神社・蛇木神社・須賀神社を合祀し、同四二年には社号を上南畑神社と改めた。更に大正元年に稲荷神社を合祀した。なお、明石氷川神社の旧拝殿は、現在当社の神楽殿に使用されている。