当地は平安末期の武将岡部六弥太忠澄が足立郡内に領した六別所の一つであるという。地内の長福寺境内から出土した鎌倉期の懸仏や多数の板碑から、当地の開発は中世までさかのぼるものと思われる。
『風土記稿』別所村の項には当社は見えず、山王社・三十番神社・神明社の三社が村民持の社として記載されている。口碑によれば、稲荷様は元々、鎮守の三十番神社に境内社として祀られていたという。恐らくは、三十番神社が法華経を守護する三十柱の神々を祀った神仏混淆の社であることから、神仏分離に際し、境内社であった当社を本社として祀り、代わって三十番神社を当社の境内社としたのであろう。現在、当社の傍らに鎮まる三神社が三十番神社の後世の姿といわれる。
当社は明治六年四月に村社に列した。その後、明治二十二年に当地は宮原村の大字となり、明治四十年五月には同村大字吉野原の諏訪社に合祀された。これにより諏訪社は南方神社と改称した。しかし、当社の社殿はそのまま残され、祭祀は旧地において継続して行われた。太平洋戦争後、氏子の間から旧地で正式に神社を祀りたいという声が徐々に上がり始め、続いて昭和三十二年に区画整理が始まると「このままでは境内地が削られるおそれがある」として、その年の内に南方神社の承認を得て合祀を解き、更に宗教法人としての認可を受けた。