1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1582年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城したが、まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、代りに1589年(天正17年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説がある。
吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。
その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城令により、敦賀城は破却された。