あかばねひかわじんじや
埼玉県さいたま市西区大字指扇2820-11
社蔵の「明細帳由緒訂正願書式」は、別当である神宮寺の火災により、当社の由緒が失われたため、明治二十年代に時の総代大久保源右衛門が旧家の文書や本殿内の古証文を調査し、明治四十五年四月二十五日付で書き上..
社蔵の「明細帳由緒訂正願書式」は、別当である神宮寺の火災により、当社の由緒が失われたため、明治二十年代に時の総代大久保源右衛門が旧家の文書や本殿内の古証文を調査し、明治四十五年四月二十五日付で書き上げたものである。「明細帳」によると、ここで示された由緒は、大正二年二月二十八日付で承認されている。 この「明細帳由緒訂正願書式」によると、景行天皇の御代、東国平定の途次に当地に立ち寄った日本武尊は、一宮氷川神社の分霊を当村の守護神として祀った。創建以来、社殿の東の大夫山に住んでいた社司がいつのころからか絶えたため、延暦十五年(七九六)に社殿の西側に神宮司をつくり、これを別当とした。神宮司は弘仁十四年(八二三)に火災によって消失し、仁和元年(八八五)に再建し神宮寺と改称した。当社はいつのころからか指扇領七か村の総鎮守として崇められたという。 一方、江戸期に神宮寺が村役人に提出するため書き上げたものと思われる境内の除地についての「献上指出社地山林境内山林畠之事」によれば、当社の創建は一宮氷川神社と同時期で、更に神宮寺の開基も当社創建と同時期であるという。また、神宮司境内に延文六年(一三六一)の銘が刻まれた石塔があったとの記述があり、これが正しければ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推定できよう。 神宮寺は弘化年中(一八四四-四八)に火災に遭い、そのまま廃寺となった。跡地は社殿の北西の道路を隔てた所である。 明治期、当社は村社に列した。明治二十二年に当社及び指扇領別所・指扇領辻・宝来・峯岸・中釘・高木・清河寺・内野本郷・西新井の一〇か村が合併し、最も村域の広い指扇村を村名に冠した。その後、同四十年に指扇領別所宮脇の村社八幡社をはじめ、同四十三年までに村内の八社を合祀した。
素戔嗚尊
旧村社
指扇氷川神社
4月15日
あり
なし