はらいなりじんじゃ
埼玉県さいたま市西区佐知川276
当社は「原稲荷」と呼ばれているが、この通称は、一帯が明治の初めころまで木立も人家もなく、文字通りの「はら」であったことによるという。この地域は水判土から続く植水古墳群の中にあり、当社の社殿は、六世紀..
当社は「原稲荷」と呼ばれているが、この通称は、一帯が明治の初めころまで木立も人家もなく、文字通りの「はら」であったことによるという。この地域は水判土から続く植水古墳群の中にあり、当社の社殿は、六世紀中ごろ以後に築造されたとされる原稲荷古墳(高さ三・五メートル、直径四〇メートルの円墳)の上にある。昭和五十八年に実施されたと発掘により、当社の南三〇メートルの植水一号古墳からは、勾玉・漆玉・翡翠・管玉・鉄器などが出土しており、当社の鎮座する原稲荷古墳は、当古墳群の中でも最大の規模を有することから、支配的立場にあった者の古墳と考えられ、あるいは古墳に葬られた祖霊と稲荷の穀霊信仰とが結び付いて、当社が古墳上に奉斎されたものであろうか。創建伝承として『明細帳』に「不詳ナレ共、当社ノ略史ニ依レバ人皇九十一代亀山天皇ノ嘉元三年(一三〇五)ノ建立ナリト云フ」と記されている。 『風土記稿』佐知川村の項には「稲荷社 覚音院持」と載せられている。これに見える覚音院は、天台宗の寺院であったが、神仏分離によって明治六年に廃寺となった。明治初年の社格制定に当たっては、金山神社が村社となり、当社は無格社となった。しかし、社格にこだわることなく信仰を集めてきたことは、境内の石灯籠・手水鉢・石垣などの奉納物の多さが示している通りである。
倉稲魂命
7月25日
なし