倉田の地内には、南北約八〇メートル、東西約一五〇メートルの平林地の中に空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられている。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」に見え、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。館跡の北西隅には倉田孫四郎の氏神であったとされる神明社がある。また館跡付近には多数の板石塔婆があり、特に南方約一〇〇メートルの明星院には六七基の板石塔婆が集められている。ちなみに、同院は室町初期の創建とされる真言宗の古刹である。
当社はこの館跡の北東二五〇メートルほどの地に鎮座しており、その方角から推して、館の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。『風土記稿』倉田村の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持下同じ、末社 天王社、稲荷社、疱瘡神社」と記されている。
本殿には、正徳三年(一七一三)の本殿棟札、享保十八年(一七三三)に神祇管領吉田家により正一位に叙された際に拝受した幣帛・宗源宣旨・宗源祝詞・更に万延元年(一八六〇)に「倉田村願主星野美恵女」により奉納された神鏡などが納められている。この中で棟札には「遷宮導師別当明星院廿五世尊盛」の名が見え、明星院が別当であったことがわかる。
神仏分離を経て当社は明治六年に村社となり、同四十年に加納の氷川天満神社への合祀司令が出されたが、昭和十八年に取り消された。