口碑によれば、鎮座地の坂田では、農業用水を天水に頼っていたため、古くから十年に一度は干ばつに見舞われていたという。
創建は不詳であるが、かつては社殿から北に五〇メートルほど離れた所に「氷川様の池」と称される湧水池があり、満々と水を湛えていた。『風土記稿』坂田村の項には、村内の神社について「氷川社 当村の鎮守にして、医王院の持、稲荷社、八幡社、持上に同じ、疱瘡神社」とある。恐らく当社の創建は別当の医王院が、天水の恵みを祈念して、見沼のほとりに鎮座する武蔵一宮の氷川神社に倣い、その分霊を湧水池のほとりに祀ったのであろう。
当社は明治初年の神仏分離により医王院の管理下を離れ、明治六年に村社に列した。しかし、当村が明治二十二年に加納村の大字となると、一村一社を目指す合祀制作により明治四十年に大字加納の氷川天満神社に合祀されることになった。口碑によると、氏子には合祀に対して賛否両論があり、全員が社殿に集まり三日間にわたり意見を交わしたが結論には至らなかった。四日目も議論が煮詰まり、賛否を決しかねていた時、突然、氏子の一人に「しゃくじ稲荷」を名乗る神託が降り、合祀をしてはならないことを告げた。「しゃくじ稲荷」は当地内に祀られている稲荷神社の通称で、霊験あらたかをもって知られていた。この神託により、氏子は全員一致で合祀しないことを決定した。