しもおおくぼすわしゃ
埼玉県さいたま市桜区大字下大久保1029
当地は中世に大窪郷に属していた。応安二年(一三六九)の「大窪郷地頭方三分一方田畠注文」(正木文書)の中に、「田大 畠二反すはの大明神」と当社の免田畠が見え、当時田畠の年貢・公事が免除されて、その分が..
当地は中世に大窪郷に属していた。応安二年(一三六九)の「大窪郷地頭方三分一方田畠注文」(正木文書)の中に、「田大 畠二反すはの大明神」と当社の免田畠が見え、当時田畠の年貢・公事が免除されて、その分が当社に給付されていたことがわかる。 口碑によれば、当社は、初め下大久保村の中郷にあったが、元禄七年(一六九四)以降に新田が開発されたことに伴って現在地に移転したとされ、そのころの当社付近は新田でも新しい土地であったため、境内の広さもわずか七五坪しかなかったという。こうした話からは、新田開発が順調に進むことを願い、新田に当社を移して奉斎した当時の人々の心情をうかがうことができる。『風土記稿』下大久保村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、浄泉寺の持」と載る。神仏分離を経て、当社は明治六年四月に村社に列した。 本殿には、白幣と共に、嘉永七年(一八五四)に江奈本甚平によって奉納された板絵が安置されている。この板絵には、太刀を帯び、鋭い眼光でにらむ建御名方命の姿が彩り豊かに描かれていたが、現在ではその輪郭が分かる程度にまで摩滅しているのが惜しまれる。 なお、別当であった曹洞宗浄泉寺は、明治四年に廃寺となり、その後は薬師寺として存続していた。しかし、昭和三十年の中ごろにはこれも取り壊された。
建御名方命
旧村社
応安2年(1369)以前
2月27日