つかもとしんめいじんじゃ
埼玉県さいたま市桜区塚本35
当地は荒川左岸の自然堤防上に立地し、地内を鎌倉街道が通る。また、古来、伊勢神宮の神領であったと伝わる神田の南西に位置する。 社伝によれば、鎌倉幕府に仕えた榎本森次の後裔賢聚が京都聖護院配下本山派修..
当地は荒川左岸の自然堤防上に立地し、地内を鎌倉街道が通る。また、古来、伊勢神宮の神領であったと伝わる神田の南西に位置する。 社伝によれば、鎌倉幕府に仕えた榎本森次の後裔賢聚が京都聖護院配下本山派修験者となり、塚本の地に移り住んで神明社を勧請して、その別当として神明寺を創建したという。神田の地名伝承に基づいて、天照大御神を奉斎して神明社を創建したことが推測される。 神明寺は当社の北方約三〇〇メートルの位置にあり、同寺の末裔に当たる榎本良夫家の墓碑銘によれば、開山の賢聚は明応元年(一四九二)に没し、以後代々修験を務めている。同家所蔵の多数の文書の中で最古のものは、貞享二年(一六八五)の「授与常火免許事」で、当時の羽黒修験との関係もうかがえる。享保十一年(一七二六)の「桃地結袈裟御免之事」では中尾村玉林院の配下であったことが見え、これ以降「大先達玉林院」の名が度々登場することとなる。当社は、『風土記稿』塚本村の項に「神明社 村の鎮守なり、神明寺の持」と載る。 維新政府の神仏分離政策により、賢聚から数えて一五代目に当たる長祐は、慶応四年(一八六八)に復飾して名を榎本伊勢義明と改め、神職として奉仕することとなった。これにより神明寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列した。昭和二年には本殿・拝殿が焼失の憂き目に遭ったが、氏子一同の尽力により翌三年に再建が果たされた。
天照大御神、素戔嗚尊
旧村社
室町時代後期
5月5日