みのかたじんじゃ
埼玉県さいたま市桜区神田56
神田の地名は、古くはこの地が伊勢神宮の神債領であったことに由来し、神領にかかわるとされる月讀社が村の鎮守であった。当社は、その末社のような形で祀られてきた社で、天照大神と須佐之男命が誓約を行った際に..
神田の地名は、古くはこの地が伊勢神宮の神債領であったことに由来し、神領にかかわるとされる月讀社が村の鎮守であった。当社は、その末社のような形で祀られてきた社で、天照大神と須佐之男命が誓約を行った際に、須佐之男命の剣から生まれた三柱の女神(いわゆる宗像三神)が祭神である。当社の祭神が宗像三神であるのは伊勢神宮に祀られている天照大神とのかかわりによるものと思われる。 旧社家の神山正男家所蔵の「身形神社略縁起」及び「古社取調書」によれば、当社は在原業平が身の守りに筑前国(現福岡県)宗像神社の分霊を乞い、東国に下った仁寿元年(八五一)八月、行き暮れて当所に宿を取り、暫時当社に参籠した際、その分霊をこの地に鎮め祀り、身形神社と称したことに始まるという。更に業平は、宝祚長久歌道の興隆を祈って持っていた筆を地に挿したところ、その筆軸が葭竹に変化して今日見られるような「西湖の葭」の群落になったと同書に伝えられる。また、境内には「さしおくもかたみとなれや末の世に源氏栄えはよし竹となれ」という業平の詠歌を刻んだ歌碑も建てられている。 江戸時代、当社は弁天社と呼ばれ、真言宗の永福寺の境内に祀られていた。当社を通称「葭竹弁天」というのはそのためで、本殿の内陣には、祭神の三女神像と共に業平の守り本尊と伝えられる像高一四・三センチメートルの白木一刀彫の神像が奉安されている。
仁寿元年(851)当地に参籠した在原業平が身の守りに携えていた宗像神社の分霊を奉斎した社
多紀理比賣命、狭依比賣命、多岐都比賣命
仁寿元年(851)
春季例祭:4月3日 秋季例祭:9月11日
なし