当地は荒川と芝川に挟まれた大宮台地上に位置する。中世には木崎郷に含まれ、江戸時代には木崎領に属した。慶安二、三年(一六四九~五〇)に作成された『田園簿』には木崎村と載るが、元禄三年(一六九〇)の検地では下木崎村と見えることから、この間に分村したのであろう。
当社の創建は明らかではないが、江戸時代には三室明神社と称していた。東隣の三室地区には、古代の創建と伝わり、大宮の氷川神社の男体社に対し女体社と称される氷川女体社が鎮座する。同社には正慶二年(一三三三)以降に書き写された大般若経が伝わるが、この中には「御室大明神」「御室女躰」の文字がしばしば登場する。祭神も同じ奇稲田姫を祀ることから、当社はこの氷川女体社を勧請したものと思われる。
『風土記稿』下木崎村の項に「三室明神社 村持、隣村領家村の鎮守なり」とみえるのが当社である。隣村の領家村の鎮守となった経緯は明らかではないが、当社境内に現存する天保二年(一八三一)の手水鉢には、下木崎村のほかに領家村と三室村の小名山崎の村人の名が刻まれている。ちなみに当村は上木崎村に鎮座する高埇明神社(現足立神社)を隣村四か村と共に鎮守と崇めていた。
明治に入り、当社は御室社と改称し、村社に列した。