宮前村の村名は、村の西端に鏡座する聖権現社の前に開けた村であったことに由来する。この聖権現社が江戸期の当社の社号であった。
聖権現社の由緒は、『風土記稿』宮前村の神社の項に「聖権現社 村の鎮守なり、天長年間(八二四-三四)紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ彼聖を崇てかく祀ると云、光徳寺持、末社に弁天庚申の三社あり」とある。この光徳寺は、真言宗聖山不動院と号し、開山の高野聖の僧源楽は、天長二年(八二五)十月二日の示寂とされる。高野聖とは、高野山を本拠として、阿弥陀の真言を唱え、高野山の因縁を語って勧進をしながら回国する下級の僧侶をいうが、その聖を祭神として祀った理由として、当社『明細帳』に「淳和天皇ノ皇子源楽上人ヲ祭り」とあり、源楽上人の貴種流寓による縁を尊んだ村人の心の表れであったようである。ただし、淳和天皇の皇子の中で源楽上人に該当する人物が実在したかは不明な上、別当の光徳寺が火災により旧記を失っているために詳細は不明である。
明治二年、神仏分離政策に伴い、仏教色の強い社号を改めるため、隣接する箕田村の八幡社の分霊を勧請し、八幡社と改称した。併せて祭神の源楽上人を道主貴之神(宗像三女神)に改め、村社となった。更に同四十年、大字登戸と当地内に鎮座していた六社を当社に合祀したことから、宮前と登戸の頭文字を採り、社号を宮登神社に改めた。