むかしは「高寺堂菩提寺」と称し、陸奥三山の一つで、未院は千有余あった
といわれたが、802年に比叡山衆徒の兵火にかかり滅びた。
その後、弘法大師が東国行脚の折この地に立ち寄られ、零落の跡をみて「この地に高野山を移し、万民に菩提の縁を結ばしめる」ため、道場を再興して真言宗の寺とした。
1171年頃には鎮守府大将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方の祈願所と菩提寺として栄えた。
しかし、嫡男が公の命に背き、源義経を逆したため、鎌倉勢の攻めにあい奥州藤原氏が滅亡。
この時、大鳥城を始め公ゆかりの当寺も堂塔伽藍ことごとく焼失した。(1189年文治5年)
以来、寺の名前も5たび変わり幾多の変を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり、現在に至っている。