創建は社伝によると、明徳年間(一三九〇-九四)のことである。また、後に当地を領した金子駿河守がその居館である大成館の鎮護とするため南方に自らの兜の八幡座の座金物を鎮めて八幡神を勧請したものと伝える。なお、この折、境内地がなかったので、しばらく氏子の村田知之家に八幡神を祀ったといわれる。
江戸期、別当は『風土記稿』に「八幡社 金乗院持」とある。金乗院は、旧上加村万福寺末の真言宗の寺で、本尊は不動明王である。
神仏分離は、明治初年に行われ、同三年の『大宮組合神社細詳取調帳』によると、住僧は復飾して中村章因と名乗って神職となり、復飾料として「持添ノ公田五畝十二歩」が与えられている。
『明細帳』によると、明治四十年に当社すなわち「大成字前原耕地無格社八幡社、同境内社御嶽社、八雲社、天神社、神明熊野琴平合社、稲荷社、琴平社、雷電社」が、大字上加字宮腰に鎮座する氷川社(日進神社)に合祀された。
しかし、昭和二十七年に氏子の熱望により合祀解除が行われた。この時、東角井光臣宮司は、神輿と共に日進神社に参り、八幡神の御幣束の返却を受け、これを神興に奉安し、先祓いの後、静々と当社に帰って来た。境内には数多くの行灯が並べられ、氏子たちは恭しくこれを迎え、盛大な還御祭を斎行した。