当社の開発は近郷と同じく正保から万治年間に行われた。また、この地は武蔵野特有の土質の軽い火山灰土で、松林が広がっていた所である。村の規模は『風土記稿』によると、東西八町、南北七町の小村で四十数戸の家が散在していた。当地の草分けは「ダンナ」という屋号の柿沼家、「ハタヤ」の戸口家、「ハッチョウ」の大木家、「カミスキ」の大木家などである。下松原の農地の大部分を占める辰見野という地名は、ダンナの家から見た方向により名付けられたという。
当社は、これらのシバビラキ(村開発)を行った人々により祀られたと伝える。また、一説には、明暦年間領主松平伊豆守信綱の命を受けた奉行中沢弥兵衛が開墾地に社を鎮祭したともいう。
祭神は、倉稲魂命で、内陣には京都の伏見稲荷大社より勧請されたと思われる神璽筥が現存し、この筥の表書きには「正一位稲荷大明神安鎮・神主正四位下・松本和泉守」とある。
鎮座地は、初め村の東南にある産土山にあったが、明治初年に当社が村社になるにあたり現在の地に移された。
社殿は本殿と拝殿からなり、本殿は一間社流造りで江戸後期の建築である。また、拝殿は入母屋造りで近年まで草葺きであったが、氏子の努力により銅板葺きに改められた。