三十八代天智天皇の御代、天皇の一之姫宮が、現在の揖宿郡開聞町鎮座枚聞神社(薩摩一之宮)の御分霊を供奉し、当初涙橋畔(本社飛地境内地)に奉祀されたが、その後現在地に移転されたと伝えられる。
当初より一之宮大明神と称え、神領は七十二町歩(現在の郡元、鴨池、武、田上、宇宿一帯)におよび、隣接の延命院(明治以前に焼失、現中郡小学校)と共に、島津藩は勿論近郷の崇敬殊の外厚く、隆盛を極めた。
島津初代忠久公以来、毎年元旦に、先ず一之宮、次に二之宮(現草牟田鹿児島神社)、次に三之宮(現川上町川上天満宮)を巡拝するを例とし、十八代家久公までその例が続いた。元禄の御代、神社名を一條宮と改称、下って明治初年の地租改正の折、更に郡元神社と改称したが、昭和三十年当初の一之宮神社に復した。
境内には、大永の名号板碑(県文化財)と、県史跡の弥生式住居跡の一宮遺跡がある。