延喜式内小社。旧神饌幣帛料供進神社。旧号を高木権現という。藩政期の記録には八幡宮とある神社で、『寛保改神社帳』に「高崎村 在光徳寺中八幡宮社僧同村光徳寺」と記され当社を八幡宮としていたことがわかる。高崎村和気にあった当社を式内社に比定、明治3年(1870)社号を古名の天佐自能和氣神社と改称した。当社の通称を光徳寺というのは、旧地(約1キロメートル北の和気の地)が光徳寺の所にあったのにちなんでの呼び名である。吉野川改修工事で和気の社地が川床になったので、大正元年に現在地に遷座した。昭和44年火災に遭い、翌年現社殿が完成した。