郷地は、元荒川左岸の低地にある。江戸初期は郷地村と称して一村であったが、元禄年中(一六八八-一七〇四)までに上・下に分村した。その後も一括して郷地村と呼ばれることも多く、明治七年に上・下が合併し、再び一村となった。
当社は『風土記稿』上郷地村の項に、「久伊豆社 村の鎮守とす、安楽寺持」とある。その創建の年代は明らかでないが、境内の最も古い石造物は参道両側に建つ灯籠で、元禄十三年(一七〇〇)に郷地村の坪井門之助外四六名により奉納されたことがわかる。また、拝殿内に「正弌位久伊豆大明神」の木製額が掛かり、享保七年(一七二二)七月に神祇管領吉田兼敬により正一位に叙せられたことがうかがわれる。
別当であった安楽寺は、当社の西方二五〇メートルほどの所にある真言宗の寺院で、開基の年代は明らかでないが、その本尊の薬師如来は寛永年間(一六二四-四四)に地頭松平五左衛門が寄附したと伝える。
明治初年の神仏分離で別当の安楽寺から離れた当社は、明治六年に村社となった。同四十二年には、字小宮の無格社稲荷社を合祀した。その後、大正五年には、社前が狭隘であったことから社殿を後方に七メートルほど移した。更に、昭和七年には御大典記念として社務所を建設した。なお、明治二十六年に地元の扶桑教先達の中根栄作が当社の社掌となって以後、福一・三朗と中根家が三代にわたり祀職を務めている。