しゅうしょうじ
千葉県香取市篠原イ527-1
日祐上人(1290-1369)は宗勝寺と深い結縁があった。『辻説法』では日蓮聖人入滅以来、右に出る者なしとまで高名で、中山法華経寺(現在の千葉県市川市中山)三世として活躍。関東・九州での布教を精力..
日祐上人(1290-1369)は宗勝寺と深い結縁があった。『辻説法』では日蓮聖人入滅以来、右に出る者なしとまで高名で、中山法華経寺(現在の千葉県市川市中山)三世として活躍。関東・九州での布教を精力的にされ、各地に拠点をつくり弟子たちの柱となった。香取郡内での露座説法は特に有名である。当地篠原村(現在の千葉県香取市篠原)でも、八幡宮の境内に草庵を設け説法をしていた。自ら彫った日蓮聖人像は、里人たちによって大事に守られていた。 堀直重(1584-1616)は、大阪冬の陣・大阪夏の陣などで、活躍した武将である。大阪夏の陣では徳川方の土井利勝軍の先鋒となり、毛利軍に奪われた味方の軍旗を、敵を城壁に追い詰め奪い返した功績により、徳川家康から4千5百石の加増をうけている。凱旋した直重公は、下総香取の領地2千石を含む1万2千50石の領主として、須坂藩(現在の長野県須坂市)の初代藩主となった。日佑上人の教えを代々守り続け、日々の生活をする里人たちの姿に、当地の地頭となった堀直重公は心を打たれた。 中山法華経寺本堂再建には幕命を受けて奉行した自負もあり、里人が法華堂と呼んでいた堂宇を修復し、寺の開基を思い立ったのである。 直重公は自ら本願人となり、中山法華経寺十八世日慈上人に相談した。日慈上人は、それほどの縁のある法華堂ならば日佑上人の遺訓を活かすことにもなる、と快諾し、終焉の地として当地での布教を選ばれたのである。 直重公も、敷地数百坪を献じた。初めて得た知行地を仏果奉公できること・貫首をつとめた程の上人を迎えられたことに幸せを感じ、日佑上人ゆかりの地で、領民の安穏を願ってやまなかったという。 元和2年(1616)堂宇落慶の法要が行われた。 山号は『法籌山(ほうちゅうざん)』 ※後に中山法華経寺別院として、『法中山』に変わっている。 昭和6年、当山三十一世 日照上人、現在の本堂建立。平成元年、当山三十三世 日孝上人(現 長妙山浄国寺三十六世)檀信徒に懇願され入寺する。当時山内全域は荒廃。同年7月大改修に着工する。檀信徒・浄国寺三十五世 日史上人・長福寺日遵上人などの協力により、参道拡張・山内全域の整地・駐車場新設・墓地造成・本堂改修・鬼子母神堂改修・三十番神堂改修・仏具新調・客殿新築する。平成16年、現住職に法灯が継承され現在に至る。
法中山
日蓮宗
元和2年 (1616年)
日佑上人
堀直重
法中山宗勝寺
東関東自動車道 佐原香取ICより3分。