さいようじ
富山県富山市南田町1丁目2−22
当寺は創建当初寺号を五智院と称し、宗門は倶舎宗で佐伯有頼の菩提寺であったと云う。恵心憎都の筆になる「立山七岺本佛七尊絵像」があったというが、今は伝えられていない。 嘉禎元年(1235年)随誉順..
当寺は創建当初寺号を五智院と称し、宗門は倶舎宗で佐伯有頼の菩提寺であったと云う。恵心憎都の筆になる「立山七岺本佛七尊絵像」があったというが、今は伝えられていない。 嘉禎元年(1235年)随誉順如直道大和尚(鎌倉光明寺四世良順上人弟子)立山参詣の折り、荒廃していた五智院を見出し砺波増山の地に一寺を建立し、寺号を西養寺とし、浄土宗に改宗したと云う。(『増上寺資料集』『鎌倉光明寺誌』西養寺二十五世称誉の記録による)その後、上杉謙信の越中攻めの兵火に遭い、各地を転々とし、慶長6年(1601年)富山の地に移住した。当寺の本尊は、鎌倉末期か室町初期の作と鑑定されている。 西養寺は、江戸時代には富山藩領内浄土宗寺院の触頭となっており、境内にある延命地蔵尊は富山城のお堀から発見され西養寺に移されたもので、富山藩より梅鉢の紋を下賜され、扶持米を頂いたと伝えられている。寺ではほうずきを精製して、子供の百日咳の妙薬として民間の信仰を集めたと云う。また、富山市本町マウンテンホテル前松川河畔の水難者供養の万霊塔は西養寺末寺の僧法誉長含が発願し、西養寺三十一世林誉上人が導師をして廷享3年(1746年)4月15日開眼供養されたものである。 当寺は明治32年の大火、昭和20年の戦災に遭遇し、多くの寺宝や本堂庫裡を焼失したが、その都度、檀信徒や、住職の懸命の努力によって復興し、現在に至っている。なお、西養寺は近世弟子の養成機関であったらしく、師弟の縁にあったものが関東関西の各寺院に董住し活躍している。
智光山
五智院
浄土宗
嘉禎元年(1235年)
阿弥陀如来 聖観世音菩薩
随誉順如直道上人
智光山 五智院 西養寺
越中国法然上人二十五霊場 第1番 新西国三十三所 第16番
市電2系統 上本町駅より徒歩2分