かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ
奈良県香芝市北今市4丁目
顯宗天皇:祖祖父は仁徳天皇、祖父は履中天皇、父は市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)。 456年10月、父の市辺押盤皇子が皇位継承の紛争に巻き込まれ、従弟の21代雄略天皇に滅ぼされたので、弘計王..
顯宗天皇:祖祖父は仁徳天皇、祖父は履中天皇、父は市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)。 456年10月、父の市辺押盤皇子が皇位継承の紛争に巻き込まれ、従弟の21代雄略天皇に滅ぼされたので、弘計王(ヲケ・顯宗天皇)は兄の億計王(オケ・仁賢天皇)と共に避難のために播磨国赤石郡(明石郡)の忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の館に身を寄せ、身分を悟られないように言葉が不自由なふりをして、使用人として働いた。 都では479年に雄略天皇が崩御、皇太子が即位して第22代清寧天皇となったが、清寧天皇には皇子がないため皇位継承者を探していた。 伊与来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、新嘗の供物を整える為に細目の館に来たところ、新築祝いの祝宴をしていた。小楯は、この席で歌に託して身分を明らかにした二人の王子に驚き、仮宮を造り二王子の御殿とした。これが「柴垣の宮」である。 (柴垣の宮は現在、「顕宗仁賢神社」が鎮座する。) 小楯が清寧天皇に詳細を報告すると、天皇は大いに喜び、直ちに二王子を都の磐余(いわれ)に迎え、兄の億計を皇太子、弟の弘計を皇子とした。 484年に清寧天皇が崩御すると、兄の億計は皇太子でありながら、聡明叡智な弘計皇子へ皇位を譲ろうとするが弘計はこれを拒否し、皇位の相譲が続く。 二人の姉である飯豊青皇女はその間を執政したので「飯豊天皇」と通称されている。 結果的に兄の説得に折れる形で485年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。 長く使用人として苦労した経験から、民衆を愛する政治を執ったと伝えられ、487年4月25日崩御。『古事記』には38歳であったと記されている。 次帝には兄の億計が即位し、仁賢天皇となった。 因みに、三木市志染町窟屋の「志染の石室(しじみのいわむろ)」と呼ばれる岩穴で二人の王子が隠れていたと云う伝説があり、神戸市西区や明石市には顕宗仁賢神社・宗賢神社が数多く鎮座している。
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