ほうどうじ
栃木県芳賀郡茂木町深沢983
下野国と常陸国を分けるように南下する八溝山地の奥深く下野の国の深沢村に、至徳三年(一三八八)一月十二日 甲州の大功徳翁大和尚が金剛山法幢寺殿堂を創立し開山。 本堂中央には御本尊の寶信房蓮生法師より..
下野国と常陸国を分けるように南下する八溝山地の奥深く下野の国の深沢村に、至徳三年(一三八八)一月十二日 甲州の大功徳翁大和尚が金剛山法幢寺殿堂を創立し開山。 本堂中央には御本尊の寶信房蓮生法師よりの千手観世音菩薩立像。向かって右側には黒羽城主より寄贈された虚空蔵菩薩坐像。その手前には元覚坊という僧侶が背負い全国を行脚しこの地にたどり着いたとされる達磨大師坐像。向かって左側には禅宗寺院の伽藍神 大権修利菩薩坐像。庫裡には守護神として韋駄天尊を祀っている。 当寺の寺紋、葵の御紋を下賜された年代は不明であるが、慶安二年(一六五〇)八月に三代将軍徳川家光公より御朱印高五石を拝領し、以来将軍交代の際に拝領。当寺では現在も徳川家歴代位牌にて供養している。尚、徳川将軍家より賜わった御朱印状は、現在栃木県立文書館に保管されている。 寛文八年に宇都宮藩の興禅寺で起きた刃傷事件に端を発した「浄瑠璃坂の仇討」にて、無念のまま憤死した奥平内蔵允の息子、奥平源八ら家臣が「武士の本懐」である主君の仇を討つが為に三年にわたりこの法幢寺を中心とした深沢の地で時機を待った。 その後見事本懐を遂げ、後に大島に流刑になるも彦根藩に召抱えられた。三年に渡るこの深沢での潜伏生活の中で、この地の村民の温情に感謝し、村民への謝礼と大願成就の意味を込め、事件の十五年後はるばる彦根の地より法幢寺を訪れ、石階段を寄進した。この石階段は風雪にさらされ現在は残っていないが、貞享四年(一六八七)に建立した石碑に、碑文と共に奥平源八らの名前が刻まれている。石碑には当時の住職、第五世翠岩祖流和尚の名が「住持 翠岩」と刻まれている。 昭和五十四年十月に碑文が解明されたことにより、第十六世定山良準和尚、地元檀家、奥平家子孫で協議し「武士の情と歴史」と表した石碑を境内に建立し、日本人が忘れてはならない、情、恩、礼を伝えている。
江戸三大仇討ちと称される「浄瑠璃坂の仇討(寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)」の源八一党が雌伏の時を過ごしたお寺さんです。
金剛山
臨済宗
妙心寺派
至徳3年(1386)
千手観音菩薩
大功徳翁禅師
臨済宗妙心寺派金剛山法幢寺
芳賀坂東観世音第三十一番
茂木町指定有形文化財/法幢寺石段寄進記念碑
真岡鐵道真岡線「七井」駅から車で15分
有り(庭です。)
有り