康暦二年(一三八〇年)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。慶長八年(一六〇三年)、徳川家康に将軍宣下して慶長十一年(一六〇六年)、平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。(寛永八年・享和二年の版文による)その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかった。(歴代の棟札文による)明治以来も崇敬者は変らず、その結果明治六年(一八七三年)十二月、明治政府より村社に列格され、明治四十年(一九〇七年)四月三十日、幣帛供進指定社となった。続いて昭和三年(一九二八年)五月二十一日、郷社に昇格した。更に昭和十七年(一九四二年)、内務省神祇院十七総第二号通牒を以って、県社昇格の内許をうけ氏子で指定改築工事中に終戦となった。 戦後宗教法人のもとで、当時昭和二十二年(一九四七年)五月十六日、氏子会が発足し、民主的に神社を氏子の手によって維持し今日に至っている。