もりおかじょうあと
岩手県盛岡市内丸
盛岡城は,三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が,慶長2年(1597年)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ,翌慶長3年(1598年)..
盛岡城は,三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が,慶長2年(1597年)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ,翌慶長3年(1598年)の正式許可の後,築城工事が本格的に進められました。 城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ,北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪などを配し,それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。 さらに,内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み,南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。また,外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み,武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構)が配置されています。 築城工事は,北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ,築城開始から36年後の寛永10年(1633年)に南部重直(代藩主)が入城して以降,藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。 盛岡城は,明治の廃藩置県の後明治5年(1872年)に陸軍省所管となり,明治7年(1874年)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され,城内は荒廃しました。 その後,明治39年(1906年)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され,市民の憩いの場として親しまれています。 平成18年(2006年)には開園100周年を記念し,「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。 盛岡城は国の史跡で、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されています。
盛岡駅から盛岡都心循環バスでんでんむし左周りで岩手公園下車、徒歩すぐ